AIアートは味方か敵か(ツール・アシストの功罪)またはWeb3時代の付加価値のつけ方について

この記事は約12分で読めます。

どうも!「ポンコツだけどサクサク生きたい」サクサクさんです。

AIで絵が描ける!と話題になってますね。

喜んだり楽しんでいる人がいる一方で、怒っている人もいるようです。

画像生成AI「Midjourney」の描いた絵が美術品評会で1位を取ってしまい人間のアーティストが激怒
高精度な画像を生成できるAI「Stable Diffusion」などが登場し、人間と遜色ない絵が多数生み出される一方で、絵という芸術作品の著作権の概念が薄れつつあることも問題視されています。このほど、Stable Diffusionより一足先に登場していた画像生成AI「Midjourney」により生成された絵が、とある...

この記事では「AIは味方か敵か」というテーマで、個人的に思うところを書いてみたいと思います。

■ツール・アシスト

AIアートが批判されるポイントとしては「人間が描いてないじゃないか!」かと思います。

ただ、この「人間が描いている」ことって実は曖昧な概念かと思っていて…

極端に言えば、Photoshopなどのグラフィック作成ソフトを使っていても、人を感動させる作品を創作するイラストレーターやアーティストさんっていると思います。

人間だからこそ、道具(ツール)を使う。ツール・アシストという観点で見ると、AIアートについてはけっこう複雑な要素がこんがらがっているように思います。

「道具を使っちゃダメなの?」という観点で言うと・・・

コインやお札を自動で数える機械って、便利ですよね?

保育園の送り迎えに、電動アシスト自転車を使うのは「ズルい」でしょうか?

自転車に乗る練習をしている子供が、補助輪をつけることは「ズルい」でしょうか?

倉庫作業するのに、腰に負担をかけず重いものを持てるパワードスーツを着るのは「ズルい」でしょうか?

ここまでの例は「ズルではない」という範疇に入る方が多いのではないかなーと思います。

となると、ツール(テクノロジー)によるアシストを受けることが「ずるい」と言われる条件としては「個人としての肉体や心をきちんと使っているか?」が求められるシーンということになりそうです。

では、アスリートに当てはめてみると、ドーピングは当然NGだとして、良いウェアやシューズを使うことでそれを得られない国の選手に対して有利にパフォーマンスできる選手は「ズルい」のか?

恵まれたトレーニング施設を使えたり、管理された食事をとれたり、そもそも政治の混乱や治安や戦争に悩まされることもなく、スポーツに集中できる家庭や経済の状況にあること自体、恵まれていると言えるのであれば、どこで線引きすれば良いのか?は難しいところかなーと思います。

スポーツから、もっと一般に置き換えてみると「親ガチャ」という言葉も生まれてますが、学歴においても家庭の経済状況が大きな影響を与えることを否定する人は少ないかと思います。

もっと「人の心が関わる」テーマとしては、冷凍食品が挙げられると思います。便利だし、味も美味しくなってるし、子供のいる家庭では強い味方ですよね。

それでも、外野からは批判の声が上がったり、当事者である親もどこか使うことに後ろめたさがあったり。

これは先ほど書いた「個人としての肉体(この場合は手間)や心をきちんと使っているか?」という観点から、ツール・アシストとして冷凍食品を使うことにネガティブな印象を与えるものと言えそうです。

■手工業と産業

演歌歌手が、自分の曲の作詞も作曲もしている。と思っている方は少ないかと思います。

昭和のアイドルは、決められた衣装・振り付けでパフォーマンスするのが一般的でした。

そんな背景があったからこそ、シンガーソングライターという存在が生まれたり、フォークソングや、バンドブームといった形で「手作りで、自分たちの心がこもった」アートこそ、リアルなんだという価値観も生まれたのではないかと思います。

漫画家さんがアシスタントを雇うことは一般的だと思いますが、本人がまったく手を動かしていないとなると抵抗を感じる人はいそうです。

でも、ラファエロもミケランジェロも、工房を持つ画家たちは、大勢の弟子たちに作業を割り振ることで、壮大なアートを作り上げました。あれは、本人の手作りじゃないから心がこもっていない/リアルではない、のでしょうか?

(これは時代も違うし、ちょっと設問に無理があったかもしれません笑 すみません)

ちなみに1日9〜12時間の睡眠をとても大切にしていた水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」は、学生アルバイトが書いた背景を大量にストックしておき、それを並べた上にキャラやセリフを描き加えることで驚異的な効率で作られていたことで知られています。

現代でも、建築家が自分で材木を切っていたら本来やるべきことが疎かになりますよね?

つまりポイントは、アーティストや、ひいては人間が「本来やるべきこと」がどこか?こそが議論の焦点なのではないかと思います。

グーテンベルグが印刷機を作ったから、口伝ではなく誰でも持ち運びできる「聖書」ができて布教スピードが早まったように、新たなツールの登場は、時代を変えるイノベーションとなることがあります。

食糧であれ、住宅であれ、貴族だけが素晴らしいものを手に入れる時代から、規格化・産業化されたからこそ庶民に行き渡り、健康状態や体格が良くなっていったという歴史があるかと思います。

ただし、畜産の工業化などで話題になったように、ビニールハウスで野菜が栽培されるのに抵抗はなくても、ベルトコンベアーに乗せられた牛が電気ショックでオートマチックに屠殺されていくことには強い心理的な抵抗がある人が多いのではないでしょうか。

ここでも問題は「心が関わっているか?」であるように思われます。

■産業と個人のジレンマ

チャップリンの「モダン・タイムス」やBECKの「モダン・ギルト」といった作品もありますが、規格化されたシステムには、その中で個人の心や尊厳が踏みにじられるのではないか?という問いがつきまといます。

ノーベルがダイナマイトを発明したから、石炭の採掘が効率的になったというプラスの側面があり。

アインシュタインが相対性理論を作ったから、結果として核兵器が開発されたというマイナスの側面があり。

極論すれば、テクノロジーは単なるツールとして常にあり、それを善用するか悪用するか、いかに使うか?がポイントなんですよね。

そういう意味では、テクノロジーも、言葉や、お金と同じで、どう使うか?どう付き合うか?を見極めることが大切なのかもしれません。

AIアートに関して言うと「作品と作者の関係性に、心を求めるか?」そして「作者/人間が、本来やるべきことは何か?」が浮き彫りになっているのではないかと思います。

■レベル分けしてみよう

私が感じていることを少しでも分かりやすく伝えるために、例を出してみます。

手打ちの麺を個人店で出すか、チェーン店が製麺機で使うか。

個人でパン屋を開くか、パンは工場で作った方が利益が出ると考えるか。

前者は手作りで喜ばれそうですが、生産数に限界があり、より多くの人の食を支えるという社会インフラにはなれませんよね。

こういった個人レベルの仕事と、システム化された産業と、さらにその先について、3つのレベルに分けてみたいと思います。

<レベル1>仕方なく手作業

設備投資できないから(仕方なく)手で作っている(材料・製法・メニュー・価格はごく一般的なもの)

食品でいうと、賞味期限がくれば廃棄しなければならず、そのための仕入や生産の加減も「長年の勘」でやってたりするお店。

ビジネスで言えば、機械でやれば効率がよい作業だとしても、生産数が少ないとか、工程が複雑すぎるとか、◯◯さんしか知らないなど属人化していることで機械化・自動化できず「仕方なく」手作業をやっているような仕事がこれにあたります。

かつて「IT土方」などと言われ、IT業界で働いているけど実際は膨大な手入力を人間が行なっていたり、といった微妙な状態もこちらに入ってしまいそうです。

<レベル2>産業化

人間や個人と切り離して、商品や作品というアウトプットだけに価値がある。

スペック、完成度、納品スピード、価格の安さが価値であり競争力となるレベルです。

アート作品でありながら、作者と切り離して作品のクオリティ(ここでは描き込みの細かさや、視覚的に美麗であることなど)で判断するなら、高いクオリティでどんどん制作できるAIの圧勝となるのが明らかです。

がんばって苦労して作ったとか、時間がかかったとか、心がこもってるとかは基本的に関係なく、作った人の人格と切り離して、アウトプットの質だけを見る場合にはそうなりますね。

産業といっても、個人商店から大規模なサプライチェーンまで様々で、業種や国などによっても変わってくるので、この<レベル2>は非常に層が厚く、多くの会社員などはこの中に収まるのではないかと思います。

便利なツールがあれば仕事を効率化できる!という一方で、便利すぎるシステムが入ってくると仕事ごと奪われることになる、微妙なバランスで成り立っているレベルとも言えます。

では、AIに対抗する、というかAIにできない領域は何なのかなー?と考えてみたのが、次です。

<レベル3>2つのパターンの付加価値

パターン①あえて、手作業でこだわりの商品を作っている

材料や製法にこだわり、独自性のあるメニューで、価格は一般の数倍の高値。

パターン②過去からの飛躍

AIは読み込ませた大量のデータから、例えば「スチームパンク風」「ジブリ風」などの雰囲気を学習し、高度に再現しているにすぎないと考えた場合。

AIに対抗できるのは、そういった過去の延長線上からは生まれてこない、飛躍したアイデアかもしれません。

例えばデュシャンの「泉」や、ウォーホールの「キャンベルスープ」など、それまでの文脈を相対化して「これがアートなの?!」と価値観をひっくり返すようなアプローチであれば、AIが生み出すのは難しいと思われます。

ただし、そんなアプローチをするには(矛盾するようですが)アートの文脈、つまり過去の歴史や価値観の変遷について深く理解していることも大切ですよね。素人が「こんなんやってみました」と気軽に作れるようなもの、既存のものに多少のアレンジを加えたようなものであれば、AIにも模倣できそうです。

つまりレベル3は、かなり難易度が高くなりそうです。

パターン①であれば「あえて手作り、高価格のプレミア」で売り出して、買い手がつくだけの説得力やブランディングが必要。

パターン②であれば「価値観をひっくり返すだけの深い知見と、自分の視点を信じて世に出す勇気」さらに、人々をそれに注目させる能力も必要。

とはいえ、このレベルの付加価値を生み出すことこそが「人間が本来やるべきこと」なのだと考えてみると、どうでしょう。

もしかすると逆に、レベル2では「本来は機械やAIに任せれば良い仕事を、わざわざ人間がやっている」という見方もできるのかもしれません。

■怒っている人はどんな人?

「新しいテクノロジーに対して怒る人」とは、ざっくり乱暴にまとめてしまうと「新しいテクノロジーに脅かされている人」なのかもしれない、と私は考えています。

影響がない人はそもそも怒る理由がないし(関係ないのに怒ってる人もいそうですが)テクノロジーに負けない自信や環境がある人は怒る必要がありません。

優秀なプレイヤー・・・営業や、経営者などは「自分があと10人いればなあ〜」なんて考えることがありそうですが、こういった状態の人であれば、AIによって自分のやりたいことをより効率的に実現できるのであれば、AIの発展は大歓迎ですよね。

もしアーティストが「自分の作風をAIに盗まれる」と考え、新しいテクノロジーに脅威を感じるのであれば、もしかしたら自分自身の活動が自己模倣に陥っているのではないか?と少し立ち止まって考えてみる機会になるかもしれません。

※ここがこの記事のパンチラインです笑

好きなイラストレーターやバンドが、作風を変えてしまって「あの頃の作風が好きだったのに」と思った経験のある人もいるかと思いますが、自己批評するクリエイターは、自ら考え方・価値観・作風をアップデートしていくものではないか、と私は思っています。

■生身は贅沢品

ボーカロイドが生まれたことは画期的でしたが、ボカロPの存在が注目されたように(米津玄師も元ボカロPですよね)新たなツールが生まれても、そこに生身の人間が関わった方が「心が動かされる」のが、人間というものではないかと思います。

クラブDJであっても、予めセットした曲の再生ボタンをポチッと押したあとはスマホをカチカチしてるより、やっぱりハンズアップして煽ってくれた方がフロアは盛り上がるのではないでしょうか?クラブよく知りませんが、たぶん。

ピアノの演奏会で、電子ピアノが演奏してたら、それは別の作品になると思います。

ロックバンドのライブ演奏でのドラマーは、生身の腕2本で、肉体を使ってパフォーマンスするからこそ、心や魂を感じさせ、感動させることができるのかもしれません。

つまり先ほどのレベル分けでいうと、ライブでわざわざ肉体を動かしてプレイしてくれるミュージシャンの演奏はレベル3であり「贅沢品」ということですね。

録画されたDVDやアーカイブ動画ではなく「リアタイが大事」という感覚もこれに近いものかと。Twitterでさえ、TVで映画やスポーツを観ながら、リアルタイムでつぶやくことで楽しみを共有するという側面がありますよね。

つまり、ネットが発達したり、AIが発達したからといって、多くの観客が「心を求める」ことはなかなか変化しないことが、AIアートを巡る議論をややこしくしているように感じます。

■Web3時代の付加価値のつけ方

ここまで長々と書いてきた内容を踏まえて、AIアートに限らずWeb3時代の付加価値のつけ方を考える場合、ツールを活用しつつも、受け手が「心を求める」ことを忘れてはいけないのだと思います。

当たり前のようですけど「誠実さ」が最低基準であって、アーティストがツールを使っているなら予め明かした上で、それでも楽しんでくれるファンを大切にするということになるのかなと。

オンラインであっても、隠し事があるとなんとなく雰囲気としてにじみ出たり、どこかのタイミングで発覚することもあり。

Web3時代では、アートも観客やファンと共に創り上げる「生きて動いている現象・運動」になっていくと思いますので、その意味でますます誠実にバックグラウンドを共有することが大切なのだと思います。

私はもともとコミュニケーションが苦手で、自分自身が「どうやったらもっと人とスムーズにコミュニケーションできるか?」について悩んだり調べたり、この記事のようにつらつらと考えている日々です。

90年代の歌で「壊れるほど愛しても、1/3も伝わらない」という歌詞がありましたが(懐かしい!)ほとんどのメッセージは、伝わらずに消えていってしまうと思っています。

アートを通して何かを伝えたいなら、もっと「みんなで楽しめるように」方法を考える必要があり・・・これまで以上に、Web3の時代ならではの形で、スピーディーに、国や言語の壁なども超えて、つながっていく可能性を追究した方が楽しいはずですよね。

■筆者について

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

「ポンコツだけどサクサク生きたい」サクサクさんです。

発達障害やコミュニケーションについて発信しています。

また「コミュニケーション・エラー」についてのNFTを準備中です。無料giveaway企画も予定しています。

普段はこちらで投稿していますので、よろしければフォローお願いします!

Instagram

ブラウザーをアップデートしてください

Twitter